横につなげると長くなる。

弱音の掃き溜めです。ようこそ。

好きな短編の話。

僕は短編が好きです。やっぱ短編小説が至高だと思ってる。僕みたいな凡人の脳内キャパを考えると短編くらいがちょうどよいのです。

「いつかこんな短編を書きたい」とずっと思ってる、お手本のような短編小説がいくつかあるのですが、今日はそれについて。

 

まず深水黎一郎さんの『人間の尊厳と八〇〇メートル』。

僕のフロッピー並みの容量の脳が辛うじて覚えているあやふやなあらすじは以下の通り。

 

「バーで1人飲んでいた主人公がおじさんから賭けを持ちかけられる。主人公の手持ちの金と自分の土地の権利書をかけて800メートル競争をしないか、と。最初は戸惑っていた主人公だったが、文学から量子力学まで様々な理論を持ち出され、納得しだす。

『人間の尊厳を証明するために賭けをしないか』。

すると、カウンターの端に座っていた別の男がその賭けに混ぜてくれと言い出して…」

 

 

本編のほとんどはおじさんの屁理屈だが、タイトルもオチも秀逸。タイトルの付け方のお手本としてるけど、僕は未だにタイトル付け下手である。まあタイトル先行ではないだろうが、無関係な事象をくっつけて話のテーマとするってのはやっぱりタイトル付けにおいて重要だと思う。

おじさんの理論はよくよく考えりゃ(考えなくても)屁理屈なんだけど、納得してしまう。ようは詐欺なんだけど、これは実際よくある話で、詐欺というのは相手の土俵に乗ってしまった時点で終わり。マジシャンのゆうきともさんが

「マジックでも詐欺でも、観る気が全くない、話を聴く気がハナからない人はかからないが、一旦、相手の土俵に立ってしまうと逃げられない」

と言っていた。かからないと思っている人ほど危ない。

そしてなんと言ってもオチが素晴らしい。オチから考えたのか、賭けのくだりから考えたのかわからないが、僕はオチから考えたのだと思ってる。というか僕がそういう作り方をするからなのだけれども。

 

横道にそれるけど、深水さんの小説で「最後のトリック」って傑作がある。読者が犯人という帯の推薦文で有名。すごく面白いんだけど、僕はあんまり納得してなくて。

以下、ちょっとネタバレですけど。

 

超能力が存在することのほのめかしがあったからフェアではあると思う。でも犯人は読者といいながら、直接関わる事件が終わり間際にしか顕在化しないのはちょっと弱いと思ってて。でもやっぱり「犯人は読者」というワードで長編を引っ張るのはすごい。

たぶん物書きなら「犯人は読者」モノに惹かれるのは誰しもあると思ってて、僕も多分にもれずその1人。そこで僕が重視したいのは“読者に「活字を読む」以外の能動的行為を惹起し、それが犯行に関わってこなければならない”というところ。

“能動的行為”というのは“読書という行為に付随もしくは内包されていない行為”であるとなおよいと思ってて、文字通り“糞”な例えだけど、読むとものすごく便意を催す本があったとして、あるタイミングで読者がトイレに駆け込んだことが作中の犯行に繋がるとか

 

 

 

 

 

……はあ?????

なにを言っているんだ、こいつ。

 

ほかに読者犯人ものあったら教えてください。

 

 

短編に話を戻します。

三崎亜記さんの短編集『バスジャック』から「二階扉をつけてください」。

これは中学生の頃読んで衝撃を受けた。それまで児童向けの本しか読んで来なかったせいもあるけれども。あらすじは、

 

「主人公は会社員の男。妻が出産を控え、実家に帰っている。回覧板が回ってきて、そこには「二階扉をつけてください」とある。近所の人にも「つけてないのはおたくだけですよ」と叱られる。近所の家を見てみると、さも当たり前のように二階の壁にドアがついている。地上へ繋ぐ階段もなく、用途がわからない。急いで設置してもらうが…」

 

というはなし。

“二階扉”を知らないのは主人公と読者だけ。読者は主人公と同じ境遇に立たされるという構図。感情移入しやすい。主人公とともに不思議な世界で翻弄されるわけです。そして最後のオチ。

『人間の尊厳〜』と同じで物語の中程まで、読者は不安定な状況に置かれる。そして最後に全貌が見えたと思ったら強烈なオチ。めちゃくちゃおもしろい。

 

落語の桂枝雀の「緊張と緩和」という理論があります。お笑いだけでなくマジシャンもよく使います。

ただ緊張は客にストレスを強いるもの。いかにその緊張をもエンタメに昇華できるか。

 

その点、先に挙げた二つの小説はその過程さえもおもしろい。緊張をも楽しませる設定や会話、描写などなど。

 

僕もいつかこんな短編を書きたいと思っています。