横につなげると長くなる。

弱音の掃き溜めです。ようこそ。

『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』を観て反省したお話。


スター・ウォーズ/最後のジェダイ』を観てきた。正直言って、不満足。展開のための展開が多すぎる。結果冗長で、どう考えても2時間以内に収まる内容だと感じた。

でも僕がブログを書こうと思ったのは、こんな愚痴をぐちぐちぐちぐちと言いたいからではない。僕は映画に詳しくないし、語ったところで薄っぺらいし。

僕はものすごく反省したよ、ってはなし。

 

隣に小学生が座っていた。お父さんと一緒に観に来ていて、チュロスを大事そうに握っていた。映画が始まる前、予告が始まったくらいで、「食べていい?」とお父さんに了承を得てから食べ始めた。

チュロスとかいう食いもんはオシャンティの極みで、遊園地とかお祭りとか、いわゆる“特別な場所”でしか食えないもの(だと最近スカルプDが気になりだした僕は思ってる)。もちろんこの“特別な場所”ってのは映画館も入る。

わざわざ父親に許可をもらわなきゃ食べられないほど、チュロスは彼にとっても特別なものなのか、それとも「大事にくえよ」と父親に釘を刺されたのかはわからない。それを微笑ましく思いつつも、神経質な僕は隣のガキンチョが騒がないか、少々警戒していた。サクサクと軽快な音が隣から聞こえてくる。


映画が始まる。ジョン・ウィリアムズのいつものテーマが流れる。

デ ェ ー ン。

何回聴いてもテンションがブチ上がるなあ、と思っていると、隣のサクサク音が消えた。神経質すぎる懸念は杞憂で、映画の中盤まで隣の少年は静かだった。


映画は冒頭にも述べたように、僕にとっては(ライアン・ジョンソンには非常に申し訳ないが)退屈で、終始無表情で眺めていた。ふと少年が気になって、視線を隣に移す。

少年は夢中だった。歪みのないまん丸の目にスクリーンの光が反射して綺麗だった。瞬きさえしない。チュロスはもうなかったけど。

終盤、ある展開が起きて、なんだかんだ言いながらも僕も心が揺れ動かされる。少年がその場面で1番かっこいい、1番重要な登場人物の名前をつぶやいた。我慢できなかったというより、無意識に漏れ出たんだと思う。爆音響く劇場にあっても、その微かな声は僕の耳にたしかに届いた。

映画が終わって、エンドクレジットが流れて、劇場が明るくなった。僕はなんとも言えない気持ちで、「帰りにやよい軒よろう」とか思いつつ、席を立とうとしたんだけど、隣の少年が立たない。通路は少年の向こうにある。帰れない。

お父さんが察して、少年に声をかけようとした。

その時である。隣の少年が震える声で、


「…お父さん、すげえ面白かったね」

と言った。

 

耳が千切れるかと思うほど冷たい風に当たりながら、原付で帰りつつ思ったのは、「スター・ウォーズ」っていいなあ、ってこと。

 

『エピソードⅠ/ファントム・メナス』は評判がよろしくない(らしい)。特に旧3部作ファンから。でも僕は小学生の頃、親父に連れられて観に行った“それ”に、甚く感動した。

ポッドレースにドキドキして、ダース・モールに憧れて、僕の身体にもミディ=クロリアンが存在するのだと信じてた。


隣の少年は、僕が『ファントム・メナス』を観たときに感じたこと、オールドファンが『新たなる希望』を観たときに感じたことと、同じものをあの瞬間に感じていた。

ある程度大人になって、映画もそれなりに観てきたつもりになって、僕は映画の見方を忘れたみたいだ。「脚本ガー」とか「演出ガー」とか「キャラ立ちガー」とかは、まさに劇中でルークが言った、

『素晴らしい。全て間違っている』

ってやつで。


まあ全て間違ってるとは思わないけども。でも、もはやそんな見方しかできなくなった僕のために「スター・ウォーズ」はあるわけじゃないのだなあ、とも思った。

あの少年もいつか僕みたいになるかもしれない。でもあの瞬間の感動ってのは、何物にも代え難いもので。その時代を生きる子供たちのために「スター・ウォーズ」はあるのだなあと感じた。

 

 

でもやっぱポーグは嫌い。

 

 

2018.3.21 追記:しばらく経ってみるとまた観たくなってきた…。突っ込みどころは多いけど、やっぱ燃えるシーンは多かったし。結局、好きやわ。