横につなげると長くなる。

弱音の掃き溜めです。ようこそ。

メガネとセックスと絵画性と。

「こうして僕は“生まれたまま”の姿になったわけだが、まだ無機物からなる異質な物体がひとつ、僕の身体から未だ外されることなく装着されているのがわかるかい? ……そうメガネだ。

君は何の躊躇もなく2年前にゾフで購入した赤縁のメガネを取り外し枕元に据えたわけだが、それは感心しない。これは僕が決してメガネに対するフェティシズムを有しているからとかそういった理由ではない。もっと高次のレベルでの議論だ。

 

……絵画性について君はどう思う? 「話が変わった」と君は言うかもしれないが、これはこの重大な議論において必要な前準備にあたるわけだから、辛抱して僕の講釈を聴いてほしい。

かつて絵画性というものは“線的”なものにあると言われていた。とても昔の話だ。例えば世界最古とも言われるラスコーの壁画を思い出してほしい。あれは一瞥しただけで誰もが“牛”だとわかる。牛の形。

形とは何だろう。それは物と物との境界線だ。牛の形を線で表した図。これが人類最古の絵画だった。しかし、印象派を例に出すまでもなく、絵画性は“線的なもの”から“色彩的なもの”へと変わってゆく。

ダヴィンチの『モナリザ』に輪郭線はあるだろうか。君は「ある」というかもしれないがよく観てほしい。確かにデッサン段階では物と物との境を示す輪郭線があっただろうが、完成品にそれは、ない。色と色。それらが重なり合うことで、そこにはないはずの“輪郭”が立ち上がってくる。……線もないのに。

その後、絵画性を巡る議論は“そもそも絵画とは?”という哲学地味たレベルにまで達しているが、今回はそこまで踏み込まない。君という完璧な絵画が現に目の前に存在しているのだから、その議論は必要ないのだ。

 

さて閑話休題だ。メガネの話に戻る。

僕は君も知っての通り近視である。裸眼で右0.1、左0.2であるから、メガネを取ってしまうと全てのものが、油彩にテレピン油を落としたみたいに滲んで見える。君の美しい唇も乳房も秘部も全てだ。これは由々しきことだ。君の美しさをこの目で捉え、視神経を通った光の信号を脳で認識するにはメガネは必須である。

しかし、性行為というものは生まれたままの姿で行うべき神聖な儀式であり、メガネという異物は即捨て去るべきだろう。むしろ絵画性という点からすれば、むしろ歓迎すべきことなのかもしれない。性行為とは僕と君との境界が溶け合い、曖昧なひとつの物体と化す行為であるのだから、メガネは必要ないのかもしれない。

 

さてここまでの議論を踏まえた上で僕はこのメガネを取るべきなのか、取らざるべきなのか。君の意

 

……痛い!メガネの上から叩かないで!

あっ……! メガネが!何も見えない!

ああ! ママァ……!あぁ……っ!!」

 

 

というブログを連休ど真ん中に書くやつはどうかしてる。